• 足さない撮り方

    以前は撮影に出るとなると、広角から望遠まで一通りのレンズを持ち歩いていた。できるだけ多くの状況に対応したかったし、「撮れない」を減らすことがそのまま良いことだと思っていた。今は違う。持ち出すのは50mmの単焦点レンズ一本だけだ。それで撮れないものは、無理に追わないことにしている。機材が減った分、当然できることも減る。広がりも、圧縮も、意図的な誇張も、以前ほど自由には扱えない。広角で引き延ばすことも、望遠で引き寄せることも、どちらも有効な表現だと思う。実際、それによってしか撮れない写真も多い。ただ、今の自分はそこまで積極的に関わろうとは思わなくなった。見たものに対して、少し距離を保ったまま、手を加えすぎずに残しておきたいという感覚に近い。以前のように、あらゆる可能性を持ち歩くことよりも、いま目の前にあるものに集中するほうが、自分には合っている。それだけの変化だと思っている。

  • インスタグラムをつまらなくするもの

    江の島の交差点、雨晴海岸と立山連峰、不動産会社と建設会社のネオンが眩しい椎名町の風景。インスタグラムを開けば、まるでテンプレートでも配布されているかのように、同じ構図、同じ露出、同じ色味の写真が延々と流れてくる。自らの目と足で被写体を探すという基本行為を放棄した彼らにとっては、「すでに評価された場所」に身体を運ぶことが撮影なのだろう。問題は、その無数の「誰でもよい写真」がフィードを埋め尽くしていることだ。私は、こんな無個性な画像群ではなく、撮影者の身体を通過した痕跡のある本当の意味での写真が見たい。その人の視線の癖や躊躇いが残っているようなものだ。ところが、新着順表示が消え、アルゴリズムが「よく似たもの」を優先的に配給するこの環境では、それすら簡単には見つけられない。皮肉なことに、インスタグラムをますます均質で退屈な場所へと加速させているのは、インスタグラムそのものだと思う。

  • 擬似フィルム生活

    今までプライベートは全てフィルム写真だったが、いよいよコストに耐えきれず、日常的に使う手段からは外した。代わりにFUJIFILM X-T5を買ったのは見た目がフィルムカメラのそれっぽいからだ。Leitz Minolta CLにNOKTON 40mm、フィルムはほとんどKodak Portra 400。これが自分のスタンスだと信じて長く続けてきたその組み合わせも、今では「たまに使うもの」になった。そして今、デジタルで「それっぽさ」を再現している。連写は使わない。AFも切る。全てをマニュアルで合わせる。わざわざ不便な操作を選び、擬似的にフィルムらしさをなぞる。冷静に考えれば奇妙だが、結局のところ自分が守っているのは撮り方ではなく、「そういうスタンスでいたい」という自己イメージだけで、一貫したスタンスだと思っていたものは、ただの習慣だったのかもしれない。それでも完全にはフィルムを手放せない。合理性では説明できない執着だけが残っている。

  • ティーバッグ四周目

    頂き物のKing of Green KOICHIRO Imperialを飲んでいる。明らかに質が高い。丁寧に作られたものだということは、さすがに分かる。ただ同時に、スーパーで買ったティーバッグの緑茶も同じく美味しいと思っている。しかも一つのティーバッグを三回、四回と使い回している。三回目まではまだお茶の顔をしているが、四回目になるとさすがに怪しい。かろうじて薄い緑色はついているが、味はほぼ記憶の残像みたいなものだ。だが、これで十分だと感じる自分がいる。結局どちらも同じ「美味しい」という箱に入れてしまう。箱の中は広いし、基準もかなり甘い。この甘さは便利だ。贅沢をしても、しなくても、感動の振れ幅がほとんど変わらない。とはいえ、ここまでくると味覚に恵まれているのか、単に鈍いのか、判断がつかない。まあティーバッグを四回使って満足している時点で、後者の可能性はかなり高いと思う。

  • 上達の果ての失敗

    私の写真はつまらない。人生の大半といったら大袈裟だが、それなりの時間は広告写真の世界に身を置いてやってきた結果、そのつまらなさはかなり完成度が高い。写真を始めたばかりの頃は、何が撮れるか分からずにシャッターを切っていた。今は違う。撮る前から、だいたいの着地が見えている。その時点でもう負けている。未知を排除し、最初から答えの見えている写真に、何も起きるはずがない。外さない代わりに、何も刺さらない。広告で培ったのは再現性だ。同じ質のものを、同じ精度で出し続ける能力。上手くなったのではなく、同じことしかできなくなった。自分の中の平均値を量産できることを「上達」と呼んでいいのかは疑わしい。長く続けた結果、感覚は摩耗し、判断だけが残った。その判断も、結局は既存の正解に寄り添うためのものだ。要するに、私は写真が下手になったのではなく、写真をつまらなくすることだけが上手くなった。

  • 桜写真における色彩の崩壊

    昨日の雨はひょっとして花散らしの雨だったかなと思い、朝方に自宅の近くを流れる目黒川沿いの桜を見に行ってみたところ、花はまだまだ持ちこたえてくれていたが、個人的には満開の頭上よりも、散った花弁を撮っている方が面白かった。それはさておき、桜が咲くたびに「またこの季節が来た」と思う。どうにかこうにか桜をピンクに染めたい人たちが、世界を都合よく塗り替る季節だ。この時期のインスタグラムは、ほとんど視覚破壊に近い。本来そこにあったはずの色は、度を超えた雑な加工によって上書きされ、人の肌も、服も、建造物さえも、均一にピンクめいている。それを「春らしさ」と言い張るのは自由だが、そこまでして「春らしさ」を演出しなければならないのなら、最初から桜など撮らなければいいと思う。春を撮っているつもりで、やっていることは等しくノイズの量産だ。悲しいかな、桜は咲いているのに、今年も写真のほうはすでに死んでいる。

  • 問い合わせ先

    正直このブログは誰にも見られなくて構わない。もちろんこちらから「見るな!」とは言わないけど、誰かに向けて書く場所ではないので、この先ずっと広大なインターネットの大海に埋もれたままでいいと思っている。とはいえ、もし何かのキッカケに誰かがここを訪れた時、書かれている内容に指摘をしたくなることがあるかもしれない。間違った情報を載せているとか、私の文章が意図せず何かの権利を侵害しているとか、そういうことが絶対に無いとは言い切れなくて、その時にそれを知らせる手段が無いというのは問題なのでインスタのリンクだけ貼ることにした。最低限これがあれば、DMという手段でコンタクトを取ることは可能になる。問い合わせフォームという方法も考えたけど、あれはその後のやり取りがメールになってしまうのが気に入らない。

  • はじまり

    今日から、誰に見せるわけでもないブログをここでひっそり始めようと思う。四月に入って新年度の到来を感じているからなのか、それとも二日前に最愛のむすこの一周忌を迎えた区切りだからなのか、恐らく答えはその両方で、色々と気持ちが動くこのタイミングに、ふと何か新しいことを始めたくなったのだと思う。ドメインは昔取ったものが残っているのでそれを使うことにする。ブログタイトルは考えるのが面倒だったのと、大して良い案も思い浮かばなかったので、横着だがドメイン名をそのままタイトルにした。小さな日々の記録が積み重なって、いつかこのブログが屋根裏部屋や秘密基地のような、私にとって居心地のいい場所へと育ってくれたら嬉しい。写真はまだ小さな子猫だった頃のむすこ。

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